共愛学園

共愛学園の理念

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」 (ヨハネによる福音書15章12節)

 共愛学園は、この聖書の教え「共愛」を理念としています。

 「共愛」は、今日的には「共生」の精神とも解釈されます。「共生」という概念は言うまでもなく人類共通の願いであり、時代の変化に左右されることのない普遍的な原則です。

 変化の激しい現代社会にあって、国内外に惹起するさまざまな課題を担い、共生の精神を模索し実践できる人材を育成することが本学園の使命です。

共愛学園の沿革

 前橋では、1886年(明治19年)に前橋英学校(校主加藤勇次郎、設立者高津仲次郎)が設立されましたが、1888年(明治21年)に入ると経営難から閉校となりました。この時、同校の女教師だった不破清、村山雪は、笹尾縫らと相談し、英学校の女生徒救済と女子の中等教育のため、女学校設立に立ち上がりました。

 この動きを受けて、高津仲次郎、関農夫雄、深沢利重らは、同年2月29日夜、前橋市内横山町鍋屋旅館で資産の譲渡と女学校設立の会合を開きました。しかし保安条例違反で前橋刑務所に一週間拘引されてしまいます。これがいわゆる鍋屋事件です。(後年、この日が創立記念日と定められました。なお、うるう日で4年に1度しかないため、通常は10月29日を代わりに記念日とします。)

 設立運動は、上毛基督教婦人会など地元キリスト者や、廃娼運動で知られる上毛青年会の有志の支援を受けました。同志社出身の不破唯次郎(不破清の夫、熊本バンド、前橋教会牧師)は、その恩師である新島襄、アメリカン・ボード(アメリカの伝道団体)のD.C.グリーンやJ.H.デホレストにも協力を依頼しました。

 こうして、不破清、村山雪、笹尾縫らによる女学校設立の呼びかけは、数多くの人々の支援と協力を得て実を結ぶことになります。同年6月11日、不破唯次郎の名前で「私立女学校設立御伺書」が佐藤与三知事に提出され、同月21日付をもって女学校の設立が認可されました。前橋英学校の跡地(当時の南曲輪町、現在の前橋市大手町2丁目)に設立されたこの「前橋英和女学校」が現在の共愛学園です。同年10月には「目下生徒数40数名に上がり、旭日東天に跳ねるの勢いとなれり」と当時の基督教新聞がその滑り出しの順調さを報じています。

 翌1889年には上毛基督教婦人会から150円のレプタの献金を得て、手狭な同地から岩神(現在の前橋市岩神町)へと移転しました。以来、校名も上毛共愛女学校、共愛女学校、共愛学園と変えながら、岩神の地において100年以上にわたり数多くの卒業生を送り出してきました。

 その後も、多くの人々の期待と支援に支えられ、現在は小屋原キャンパス(前橋市小屋原町)に移転し、こども園・小学校・中学校・高校・大学を擁する総合学園として社会に奉仕しています。

1888年明治21年前橋英和女学校設立(現在の共愛学園中学・高校)
(前橋英学校の跡地、現在の前橋市大手町)
1889年明治22年上毛共愛女学校と改称
現在の前橋市岩神町に校地購入、校舎建設
1892年明治25年上毛共愛女学校第一回卒業式
1892年明治25年このころアメリカン・ボードが宣教師館を建設
1905年明治38年共愛女学校と改称
1939年昭和14年共愛幼児園を開設(現在の共愛学園幼稚園)
(園舎は旧アメリカン・ボード宣教師館)
1945年昭和20年前橋大空襲により校舎焼失、再建開始
1953年昭和28年法令改正により共愛幼児園が共愛幼稚園に移行
1965年昭和40年共愛幼稚園を共愛学園幼稚園と改称
1988年昭和63年共愛学園女子短期大学を開設
(前橋市小屋原町)
1998年平成10年中学・高校を小屋原キャンパスに移転
1999年平成11年共愛学園前橋国際大学を開設
(短大から改組転換、男女共学化)
2001年平成13年中学・高校を男女共学化
2001年平成13年宣教師館の小屋原キャンパス移築完了
2004年平成16年共愛社を共愛学園と改称
2006年平成18年共愛学園幼稚園を小屋原キャンパスに移転
2009年平成21年木瀬保育所が前橋市から移管され、共愛学園木瀬保育園を開設
2011年平成23年総合グラウンドが完成
2011年平成23年共愛学園学童クラブを開設
2016年平成28年共愛学園小学校を開設
2016年平成28年共愛学園幼稚園と共愛学園木瀬保育園が共愛学園こども園に移行

共愛社

 今日の学校法人の前身となる組織である共愛社は、1889年に設立されました。その時に作られた文書「共愛社々則」が今日まで大切に伝えられています。

 「○○社」という名称は当時の結社に一般的なもので、教育関係の例としては京都の同志社(1875年設立)があります。(ちなみに、共愛社と同志社は、同志社を設立した新島襄が、上州安中藩(群馬県安中市)の出身であり、共愛社の設立の発起人の一人になっているという関係があります。)

 残念ながら、「共愛」と名づけた理由は明文化されていませんが、当時は漢文の素養豊かな時代であるため、「共愛社」を漢文読みにすると、「愛を共にする者の社(結社)」と読むことができます。この「愛」とはキリストの説く愛(アガペー)を意味しますので、共愛社とは、「キリストの愛を信じるものたちの集まり」という解釈もできます。(『共愛学園百年史』)

 いずれにしても、「愛」は、創立当初より学園の基本だと言えるでしょう。

 やがて、「共愛」という名称は、聖書にある次の言葉に基づくものとして理解され、共愛学園の教職員と生徒・学生の間で長年にわたって指針とされてきました。この聖書の言葉は、今日まで学園の基本精神を示すものとなっています。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」 (ヨハネによる福音書15章12節)

 なお、「共愛社」という名称は学校法人の名称として長く残りましたが、時代の移り変わりの中で群馬県民には「共愛学園」という呼び名が親しまれるようになったため、2004年4月に学校法人の名称は「共愛社」から「共愛学園」に変更されました。

絵葉書になった共愛女学校

絵葉書になった共愛女学校

共愛学園の学園史

 共愛学園の学園史として、近年では、『共愛学園百年のあゆみ 1888~1988』、『共愛学園百年史(上・下1・下2)』が刊行されました。

共愛学園の徽章

 共愛学園の徽章は、「ともさくら」の徽章といい、桜の花をかたどっています。初めは中央の十字架はありませんでしたが、昭和の初め頃に加えられたといいます。

共愛学園の徽章

 共愛女学校は、明治の頃から、この徽章を用いてきました。

 当時の女学生の制服は袴(はかま)だったため、1902年からは、桜の徽章をモチーフにした模様を袴のすそに縫い付けて他の女学校との区別をつけることも行われていました。その袴の模様は「とも桜くずし」と呼ばれる優美な曲線でした。

 ちなみに、群馬県立高等女学校(現在の群馬県立高崎女子高等学校)は太い一本線、前橋市立高等女学校(現在の群馬県立前橋女子高等学校)は二本の白線を袴のすそに付けていました。袴のすその徽章は当時の女学生の誇りでした。